0.地震予知体験
○ 日本は、世界の中でも有数の地震国である。至る所に活断層があり、よく地震が起きる。震度3ぐらいまでは被害は小さいが、5以上になると、精神的にも物質的にもダメージが大きい。
1995年の1月17日5時46分、突然、マグニチュード7,2という大きな地震が関西に起きた。
○ 私はその阪神淡路大震災が起きる一ヶ月前と前日までの五日間、施術の依頼で大阪に来ていた。大阪にはこの地震が起きる8年前から、月1から3回の割合で出かけていた。最初に兆候があったのは震災一ヶ月前である。関西空港に降りた途端、左手に強烈なビリビリとした感覚が起きた。
○ 過去の体験上、周りにパワーの高い気を発する何かがある場合か、地震が近い内に起きる場合に手がビリビリする。その時は、まだどちらかよく分からなかった。通常は、そのビリビリ感覚は10秒以内で消えるが、大阪では一分ほど続いた。こんなに長く続いたのは初めてである。
○ 1995年1月15日、再び施術の依頼を受け大阪に向う。大震災が起きる二日前のことである。前回の感知をもう一度確かめるため、飛行機の中で全身の気を集中させた。関西空港に降りた途端、またしても左手にビリビリ感覚が襲う。間違いなく地震感知に違いないと確信した。どうしようもない胸騒ぎと不安から、このまま、すぐに宮崎に引き返したいという気持ちになった。
○ 1995年1月16日、大震災が起きる前日の昼、クランケ達と一緒に堺市の海に近いリーガルロイヤルホテルで食事をした。天気も良く、高層ホテルの最上階のレストランからは、六甲山や大阪湾が眺望できた。私は突然、食事の途中にすっと席を立ち、窓越しから六甲山や海に向って手をかざした。
○ 体中の気を掌に集め、何も考えず全神経を集中させ、天や地に心を委ね、大自然の気の変化、磁場エネルギーの乱れを感知しようと試みた。やはり、掌にビリビリ現象が感じる。特に反応が強かったのは、大阪湾から神戸の方角であった。
○ 1995年1月16日、クランケ達に地震に気をつけるよう話し、大阪関空発18:50分の宮崎行き最終便で大阪を後にした。19:55分宮崎空港に到着。我が家に着くと夕食を軽く済ませ、疲れもあってか、その日は早く就寝した。翌日の1月17日の朝、妻の叫び声で起こされた。関西で大地震が発生したという放送がテレビに映し出されていた。
○ 神戸の多くの建物が崩壊し、燃え続けている惨状が放送され、心配のあまりクランケ宅に電話するが全くつながらない。翌日の18日の夕方に、相手から無事の電話があった。電話の第一声が、「安部先生、当たりましたね」であった。そんなことより、被害や怪我のことを聞いてみると、玄関口の大きな石灯籠が倒れただけだということだったのでホッとした。
○ 堺市は地震の中心地から遠かったためM5だったらしいが、それでもかなり揺れたそうだ。地震直後は滑走路点検のため、三日間飛行機の離着陸ができなかったらしい。もし、1月16日の宮崎行き最終便に乗り遅れていたら、私は三日間、あるいはそれ以上大阪に足止めになり、家族はもとより、勤務先の中学校でも大騒ぎになっていたことであろう。
○ 地震後一ヶ月ほどして、また大阪を訪れた。今回は伊丹空港に降り、クランケに迎えに来てもらった。通常なら少々渋滞していても、40分程でクランケ宅に到着するのだが、このときは何と4時間もかかった。
○ 地震被害者救済のための緊急用自動車専用道路ができており、一般車両は一方通行の規制を受けていた。倒壊した高速道路は、ほとんど手付かず状態であった。車中から現場の状況を目の当たりにし、地震の状況の悲惨さを理解できた。
○ 私はいつの間にか、このような能力を身に付けていた。ネズミ等の動物が地震を予知するかのように、地殻の異変を身体で感じるようになっていた。だが、近辺の地域しか感知能力は働かない。それが非常に残念な気がしてならない。
仮に、どんなに感知能力が優れていたとしても、多くの人を助けることは不可能である。わずかでも身近な人が助かるだけで良いと思わなければいけないのかもしれない。